室 津 と 文 学
 
   
文学の宝庫を案内


     2.室津と西鶴  3.『 乱菊物語 」 と室津
                                   
室津の創作詩・うた


   1.和歌、俳諧

 瀬戸内海は日本の大動脈であり、その東部に位置する室津は古来より
海駅として栄えました。
近代以前は海上交通が主だったので、室津には多くの文人がその足をと
めました。ここではその中で有名なものを紹介します 。(詳細は特別展図
録「 室津と文学 」参照)。
  まず和歌から。
  室津の港を詠んだ歌に「新拾遺集」に収められた大江茂重の次の歌
  が有名です。

    友誘ふ室の泊りの朝嵐に
          声を帆にあげて出づる舟人
 この歌はいろんな書物に載せられていますが上句を「はりまがた室のとぼその朝風に」と誤って
引用されている場合が多いようです。
 和歌で最も有名なのが山部赤人が「辛荷島を通ずる時」に作った歌です。長歌と反歌三首よりな
り『万葉集(巻六)に収められています。その反歌第一首がつぎの歌です。


    玉藻刈る辛荷の島に島廻する
          鵜にしもあれや家思はざらむ


 この歌は船旅の途上でわが家を思いつつ詠んだ旅愁の歌です。当時の
船旅は危険かつ緊張をともなうものでした。難波津を旅立ち、この島の
名前が歌人赤人に家を離れた辛い気持ちを喚起させたのです。

 赤人のこの歌ののち、唐荷島は多くの歌人に詠まれていきす。
なかでも筆記すべきは東京の歌人、植松寿樹です。植松は窪田空穂門下の歌人で、大正9年の夏、
山陽本線の龍野駅を下車し、夜中の山道を歩いて室津まで唐荷島を見に来ます。翌朝、賀茂神社
より唐荷島を望み、詠んだ歌がつぎの歌です。

     松にまじり若竹生ふる辛荷島
            
あまり眼近み忘れて見てゐつ
 
 万葉文学で辛荷島と書いているところもあわせて、歌人の唐荷島への思いがわかります。
『万葉集』にはもう一首、読人不知で巻十二につぎの歌があります。

     室の浦の湍門の崎なる鳴島の
            磯越す波に濡れにけるかも 

 鳴島とは今日「君島」と呼ばれる島で,この歌も島の名が、旅のつらさと
かさなって、旅愁を喚起させています。
 和歌ではないが俳諧も室津を多く詠んでいる。有名なものとしては蕪村
がある。蕪村は1766年四国へわたっている。その途中室津に立ち寄って
いる。(有名な「ひねもすのたりのたりかな」は瀬戸内海の船旅の途上で
つくったといわれる。)
 「蕪村句集」のなかから室津の二句を紹介します。

     梅咲いて帯び買ふ室の遊女かな

     
朝霜や室の揚屋の納豆汁
 当時の室津は、瀬戸内の海上交通の要衝地だっただけでなく、遊女町
として有名であった。二句とも遊女に関するところも蕪村らしいといえます。


2.室津と西鶴

         室津は 「遊女発祥の地」とよくいわれます。その言いだしっぺのひとりが井原西鶴(1
        642−93)です。井原西鶴は江戸時代前期の俳人、小説家です。西鶴の小説家として
        の処女作が『好色一代男』 (1682年刊)です。物語は今業平、俗源氏と呼ばれた色道
        の天才児、世の介の一代記です。そのなかで、都会で色道の修行をした世の介が諸国
        遊行興の旅にでます。もちろん室津にきます。世の介37歳のときになっています。巻5、
         31章がその部分で次のような書きだしではじまります。
        「本朝遊女のはじまり、江州の朝妻、播州の室津より事起りて、いま国々になりぬ」
        つまり、日本の遊女は朝妻と室津よりはじまり、全国にひろがった、というのです。
        『好色一代男』といえば当時のベストセラーです。そこでこう書かれているのですから、
        それを信じた世の人は多かったと思われます。

             

 西鶴には『好色一代男』のほかに室津にふれた作品がいくつか
あります。有名なところでは、お夏清十郎を扱った『好色五人女』
1686年刊)があります。他に『懐硯』 (1687年刊)、『好色盛衰記』
(1688年刊)、『新可笑記』 (1688年刊)などがあります。

 なぜ西鶴はそれほど室津を取り上げたのか? まず、室津が
海上交通の要衝として栄えた港町だったことがあります。
関西はもちろん、全国的に名が知れた港でした。そしてなによりも、
好色物で作家としてデビューした西鶴にとって 「遊女のはじまりで
ある」 室津は無視できない土地だったと考えられます。
文学的教養の豊かな西鶴にとって室津は謡曲 『室君』 の地でもあ 
りました。例えば、 『 飛梅千句 』 (1679年刊)のなかで、友雪の
「廻船やあしすりをして留ねらん」の句をうけて、
          「 近つく方は風邪むろ君 」と西鶴は詠んでいる。廻船といえば室津、室津といえば室君
        ということです。室津についての西鶴の知識相当なものであったことは間違いあいません。
        
         それでは西鶴は室津へ来たのか? 残念ながら確たる証拠がありません。
        『名残の友』には花見に西鶴が行ったことが記されています。しかし、それより西を
        西鶴が訪れた確証はありません。(噂はあります)。 でも、常識的に考えると、西鶴が
        室津に来た可能性は高いと思います。というのは、西鶴はかなりの旅行家だったとい
        うことです。さらに、俳人であった西鶴には播磨地域に門人が相当いたからです。
         最後に、西鶴の実地見聞も織り込まれているという道中案内記 『一目玉鋒』(168
        9年刊) より室津の項を抜粋しておきます。
         「 此室の入海は西国第一の舟かかり湯風呂あまた有遊町さかりて風義のよき所也
        名物になめし革細工人有 」
          


   

3.『乱菊物語 』 と室津
                    

       『乱菊物語』は、谷崎潤一郎の長編小説のひとつで、昭和5年3月18日
      から同年9月6日まで約半年にわたって東京・大阪の朝日新聞に掲載され      
      昭和24年7月に創藝社より単行本として出版されました。
      内容は室町時代末期の播州大名が室津の遊女 「かげろふ 」をめぐって
      くりひろげる波瀾怪奇で幻想的なものです。
      谷崎小説のなかで大衆小説的な作品といわれています。前編で中絶して
      る未完の作品であるのもこの小説を幻想的なものにしています。
      『乱菊物語』は小説家谷崎の作家活動のなかでひとつの意味をもつ      

       作品といえます。谷崎は明治19年(1886)の東京生まれですが、
      関東大震災(1923)を機に関西に移住します。それまでは耽美主義で
      モダニズムな作品を書いていた谷崎が、関西の風土にふれることによりしだいに
      伝統 文化と古典文学に眼を開いていきました。
      有名な 『源氏物語』 の現代語訳や大作 『細雪』 はこのような背景のなか

      生まれた作品です。『乱菊物語』 はまさに谷崎の古典回帰の先駈けになる作品といえます。

       『乱菊物語』 の舞台の中心は室津、家島群島、京都です。谷崎が室津を取り上げたのは港町室津の
      もつ歴史にあったととおもわれます。古代より港町として栄えた室津はさまざまな人々ー異国人も含めー     

      が行き交う所でした。そこには伝説の美女・室君『金葉和歌集』 に花漆と詠まれています。ーが
      いて歌謡 『棹の歌』 が残っています。谷崎にとってはまたとない題材があったのです。
      『播磨鑑』 や 『播州名所巡覧図絵』 などを参考にしながら構想を練ったと考えられます。

題材のために室津にきた谷崎は木村旅館に泊まり、舟を雇い室津から家島に

向かったといいます。残念ながらそのときの痕跡は現在なにも残って
いません。ただ、 『乱菊物語』 は昭和31年に池辺良、八千草薫主演で
映画化されています。

     『乱菊物語』挿し絵  

                                                     つづく −       

    トップページに戻ります